自分のことは自分で

自分のことは自分で

我が家の次男くんの最近の朝ごはんは、レトルトの味噌汁。
袋から具と味噌を出して、お椀に入れて、お湯を注ぐだけ。

彼はこれを、自分でやることにどうしても納得がいかない。
それは母さんの仕事。
母さんが朝、どんなに忙しくても、そんなことは彼には関係ない。
だって今までずっと、作ってくれてたし、自分は起きてきて食べるだけだった。あえて自分で作る意味がわからない。のだろう。
無理もない、のかもしれない。

なんでも自分でするのが当たり前になってほしい。
と、私がちゃんと、子どもの成長を意識して思い始めたのは、実は、わりと最近なのです。
それまでは、子どもたちが人として一人前に成長することより、ただかわいい、お世話して(私が)喜ばれたい、叱って教えるより、ご機嫌とって支配したい、そんなことを続けてきた。
できる限りのことを私がやってあげることで、子どもたちには極力自分でやらせないことで、どれだけの成長の機会を、才能開花のチャンスを、奪ってきただろう、と思うと、いたたまれない。けれど、だからといって積み重ねてきた生活習慣を変えるのは容易でない。
自分でしなさい、というと、衝突が起こる。言い争いや、籠城、ときに暴力も。その場をしのぐために、妥協する。まだまだ、自分の手中で可愛がっていたいという、傲慢さを捨てきれていない私がいる。

食べたくなったら自分で作る。より美味しくするために工夫する。
自分でするのが当たり前の人は、日々模索と、発見と、喜びがあると思う。人のせいで何かができない、という制約からも解放されているから、気持ちも発想も自由。
他人のことは、信じて見守るのが当たり前だから、どんな結果も祝福できる。

自分ではなく、人がするのが当たり前の世界では、
やってほしいことを、思うように他人がしてくれないと、腹がたつ。
人のせいでできなかったことを嘆く、責める。
のぞみは叶わない、欲しいものは手に入らない、不満だらけ。
それじゃないとイヤ。狭くて融通がきかない。
他人のことに、手出し口出ししたくなる。
結果の良し悪しより、結果に自分がどれだけ影響を及ぼしたか、が、重要だったりする。

誰よりも何よりも、私自身が、「自分のことは自分で」「他人のことは信じて任せる」を、腹の底で受け入れていないってこと、だよね、と思う。
子どもたちは、いつだって、必死で、そのことを見せつけてくれている。